2015年11月19日木曜日

2015ツール・ド・シンカラ その7

ここまで

9ステージという超長丁場のツール・ド・シンカラ。第5ステージでステージ2位に入り、戦果をあげた。ようやく半分を折り返したが、選手は消耗が激しい
****************************************************************************

僕が所属するブリヂストン・アンカーには、トマ・ルバ(Thomas Lebas)というフランス人選手が2012年から所属している。彼はアンカーに所属する前は長らくフランスのトップアマチームで走っていたが、アマといっても競争の激しいフランスのロードサイクリングにおいて立派なステータスのチームにいた。若いころにヨーロッパのトップチームに上がるチャンスを逸しただけ、というのが衆目一致するところだと思う。実際彼は現在実力的に、プロコンのエース級クライマーをも凌ぐ力をもっている。ストイックで、脚は針金のような細さにいつも仕上がっている。穏やかで、宮沢賢治みたくいつも静かに笑っている。ロードサイクリングの世界に転がっている理不尽に直面しては、だまって首を振り、めげずに場をやりすごす。疲れやいらだちを表情にめったにださない。

そのトマが第5ステージを終えた夜、心持ち青い顔で夕食はスキップするといって会場までいかなかった。普段は厳しく節制しても、レースのときにはきっちりとエネルギー源を確保するトマ。特にステージレースで安定感のある彼が、レース中の食事を抜くというのはなかなかのことである。ただし、表情が穏やかすぎてその苦しみはあまり推し量ることができない。一方で自分もレース後の移動の車から、じくじくと腹が痛い。胃のむかつきも感じる。とにかく明日のことを思い、米をふりかけで押し込む。

若手の椿は夕食会場に現れすらしなかった。ひどい腹痛と発熱で苦しんでいるという。僕自身もスタッフから事情聴取されたが、病的な感じはその時点ではまだ少なく、今日のステージの激しい疲労から胃腸が弱っているのではないかということで、対処方法はよく眠るしかなかろうということになった。

しかし時間が経つにつれて、症状はおさまるどころか悪くなる一方だ。あまりにもトイレにいく回数が増えるものだから、インドネシアのトイレにもれなく設置されている、手で狙いをつけるウォッシュレットの使い方まで覚えた。やってみると案外快適で、他のなによりもインドネシアに溶けこんだ気分を感じる。モロッコの薄暗い公衆浴場「ハマム」で風呂に入ったのと同じぐらい文化的浸され度合いが深い。悪寒を感じたので熱を測ったところ、立派に発熱していたのでこれはもういかんと思って、レースドクターを呼び、診察を受けて薬をもらった。レースドクターによれば疲労と森林火災の煙で身体が弱っているからだという。胃薬と下痢止めと解熱剤をもらった。各々の症状に対処するというのはわかりやすいが、なにか根本的な原因へのアプローチが必要なのではないかとひどい気分で漠と思う。

できることは特にない。意識にのぼるのは、空白の時間と、ときおりの苦痛と、近づきつつあるレース上での死。このままの状態で朝を迎えれば、明日のステージを走りきれないのはまず疑いがない。自分が打たれている戦争動画をスローモーションでみているような気分で時間を過ごす。戦争じゃないから本当に死なないけれども。

翌朝になっても症状はよくならず、初山だけが朝食会場に行った。初山が帰ってくると、レースキャラバンの半数は倒れているのではないかという知らせをもってきた。トマと椿も出走は厳しい。僕も監督と話して第6ステージの出走を取りやめた。

最後の望みは主催者がステージをキャンセルすることだった。数チームが全滅し、総合リーダーもやられていることから、まあまあ現実味のある話だ。インドネシア人もやられている。れっきとした食中毒だ。胃腸が弱くて現地の食事になじまないみたいなヤワな話じゃない。日本だったら保健所が来て、地方紙とローカルニュースにでも取り上げられて大会が即刻中止になりそうだが、インドネシアだからなにごともなくレースは続く。

一応レースは大部分が選手による自主的なニュートラル状態で行われたらしい。選手が次々にコースの途中でトイレットペーパーを持って(賢明だ。第3ステージの僕のような目にあいたくなければ)トイレに駆け込みながら行進は続いたとのこと。最後30キロだけレースとして走ったらしい。その30キロ中唯一の登りで、腹痛で苦しむピシュガマンの総合リーダーを、別のピシュガマンの選手が置き去りにしてリーダーを奪っていった。世知辛い世の中だ。

前日の僕が入賞したステージだけでも驚くべきことに16人も消えていたが、今日は出走しない選手が多数で17人が新たに消えた。残りは74人。完走した選手でも20人ほどは体調を崩しながらギリギリだったらしい。実際最終的に9つのステージを完走したのは59人だった。

ここで僕のシンカラはついえる。このあと、2日高熱をだした後に自前の抗生剤でようやく快方に向かった。やっぱり抗生剤が必要だったじゃないか、ぶつぶつ。それから部屋がどぶねずみみたいな臭いがする民宿で、愛三の2人が外のホースで身体を洗っていたり(結構寒いけど、これが一番清潔だと言っていた。その通りだった。)、うらぶれた遊園地のコテージに泊まったり、再びパダンの瘴気の中で練習したりした。

あまりにも多くのことがありすぎて、ここには書ききれないこともたくさんある。初めての東南アジアツアーの体験が鮮烈すぎてまじめにブログを書き始めたら、とんでもない長さになっていつまでも終わらないことに。それでもここまで読んでくれた人がいたら嬉しく思います。

これだけのことがあっても、インドネシアには憎めないところがある。それは人につきる。誰もが親切で、僕らに興味をもって世話をやいてくれようとやっきだった(ときどきそれがあさっての方向へ飛んでいくのだが)。第5ステージで逃げている時の沿道の人びとの大歓声と表情は忘れられない。多分、自分の走りで知らない人を生きているうちで一番興奮させることができたんじゃないかという瞬間だった。本当に自分がロックスターになったような気分で頑張れた。

通訳のファイサル氏しか読めないかもしれないが、インドネシアに感謝!
これを書き終えてようやく本当のオフシーズンをむかえた気がする

photo by Sonoko Tanaka

2015年11月12日木曜日

2015ツール・ド・シンカラ その6

ここまで

疲労の色の濃い集団で、全ステージ中最も厳しい山岳を含む第5ステージに突入。序盤のイラン勢の打ち合いが落ちついたのをみはからって逃げに乗り、一番厳しい山を超えた。相棒のイランチャンプと2人で数分の差をもって残り40キロ。
************************************


ロードレースにおいて、残り40キロで2〜3分差というのは、十分な差とはいえない。むしろ厳しい。俗に言われるのは、10キロ1分ルールだ。標準的な逃げと、標準的な大集団なら、大集団が意思をもてばだいたい10キロで1分ずつ差を縮めることができると言われている。これがプロ選手なら誰もが知っている経験則(a rule of thumb)だと思う。

例外はたくさんある。今回のようにまだアップダウンが残っており、予想の斜め上ばかり起こるレースでは番狂わせを演じる要素がいっそう残っている。

しかし僕は全く別に、この時点で逃げ切りはありうると直感していた。それは飛び出す前の集団の雰囲気であり、コースの雰囲気であり、相方のイランチャンプとのローテーションの滑らかさといったさらに高度な情報を判断に上乗せできるようになっているからだと思う。

もちろん本当に「勘」違いかもしれない。誰かが言ったように、「アイデアはそれほど重要じゃない。実行こそが困難だ」ということかもしれない。だが、逃げ切りを見すえた逃げ方と、アシストとしての効果を求める逃げ方は違うので、どういう気構えで逃げるかは大事だ。

イランチャンプも自分も、ひっきりなしにチームカーを呼ぶ。僕ら2人のすぐ後ろに2台のチームカーが走っているだけだから、普段の長い隊列に比べて格段に呼びやすい。余計なボトルは持たず、少しでも運ぶ重量を減らし、後ろの集団の情報をまめに聞く。突発的に後ろがペースアップを始めたら、合わせて一気に踏むつもりでいる。

「うしろもね、結構消耗しているから逃げ切りを視野に!」と監督が話しかけている。「最後下り基調だけど、どこかでアタック!」と指示があった瞬間に、さっと相方がこちらに視線を飛ばした。

「アタックって単語を使わないでください」と声を下げて返す。「攻撃とか、日本語でいってください!」監督は苦笑して下がる。

僕はザバスゼリーバーなぞをもらって補給食にしているが、イランチャンプはみかんとか、パンとかを食べていた。ワイルド。少し不格好で癖があるけれども、力強いペダリング。若い選手だが、白基調のナショナルチャンピオンジャージからは、あの怪物じみた選手の集う国のチャンピオンだという誇りが伝わってくる。

お互いにコースの得意不得意を分業して、登りのペースを僕が作り、下りで彼の体重を活かして高速で下る。2人で1つの構造物のようながっちりとした走りを組み立てていく。初対面の日本人とイラン人が、インドネシアの山道で隙のない走りを作り上げている様にポストモダニズムを感じる。

ラスト20キロ、差は変わらず。道は下り基調になった。体重の分だけ相手と似たような分量を引くのがきつい。しかし気持よく回っているこのローテーションを崩してしまえば、あっというまに後ろは僕らを捕らえてしまうだろう。総合逆転をかけて逃げた、シンカラ直前のツール・ド・北海道ではまさにそういう失敗をした。今回こそは。

ラスト10キロで2分差がオートバイから告げられると、お互いに少し微笑みを交わした。

登りが出てこないことに焦る。平坦の馬力では190センチはあろうかという大型の相方にはかないそうにない。残り距離が減っていく中、思い切った牽制もできず、ひたすら時計のように正確にローテーションを刻んでいた。こうなったら真っ向勝負と腹をくくる。

1キロの表示をみて、アタックに反応できるように心と身体の準備をする。しかし、ラスト800メートルで先頭をかわった瞬間に、明らかにこのタイミングでくると予想もできたアタックにつけなかった。イランチャンプは鋭く加速し、日本人でなかなか見ることのできない、大型選手がみせる力づくの巡航に突入した。

まずは冷静になれと自分にいいきかせる。アタックを外した以上はゴールラインまで最短の時間で到達するというシンプルな問題に集中する。ラスト400メートルでやや登り基調になり、前方でイランチャンプが苦しんでいるのが確認できたが、差が縮まらない。そのまま苦しみぬいて、結局ギャップを埋められずにゴールした。

ゴールラインで待っていたスタッフのところで、スプライトを受け取ってゴクゴク飲む。こういう時の炭酸飲料は、ヘルシーさとか、カロリーがどうとか、日本のお上品な清涼飲料水の謳い文句が馬鹿らしくなるぐらい、原始的なおいしさを感じる。普段日本では、そんなに飲まないんだけれど。

一寸先にゴールしたイランチャンプと握手して、おめでとうと言って握手した。彼には負けたが、少なくとも今日はオッズに勝ったと思った。どこかの賭場で「このアタックが捕まるか?」が持ちだされたとしたら、きっと捕まる方に賭ける人が多かっただろう。逃げ切りは、いつもある種の奇跡だから面白いと思う。

メイン集団もゴールして、例のごとく現地の子どもたちが選手テントをぐるりと取り囲み始める。最初のうちはまわりを囲んでいるだけだが、いつも何かのきっかけで防衛線は崩壊して、写真を取らせろ攻撃に囲まれる。シンカラ地方の子どもたちのスマートフォンには、疲れてちょっとひきつった顔をした自転車選手と写ったセルフィーがたくさん残されているはずだ。

レース後にはプールサイドで昼食が供された。僕は身を削らんばかりの走りをしすぎたせいか、食欲があまりわかずに少しライスとスープを食べただけだった。他のメンバーは元気に肉を食べた選手もいたし、パスタや米だけ食べていたりとあまり共通しているところがなかったように記憶している。

この食事の内容を後から何度も述懐することになる。それは、その晩から一人、また一人と選手が倒れ始めたからだった。


2015年11月2日月曜日

2015ツール・ド・シンカラ その5

日を追うごとに景気よく集団は小さくなっている。もともとコースが厳しいから、弱い選手は生き残れない。近くでおきている森林火災の煙幕と、排ガスで呼吸器系にも負担がかかる。なによりも胃腸の不調を訴える選手が多い。冗談みたいなドタバタ劇の犠牲になる選手も少しいる。

前日の第4ステージだけでも13人がいなくなった。内訳は2人DNS(Do not Start 出走せず)で、10人がDNF(Do not Finish 時間内に完走せず)、1人がDSQ(Disqualified 失格)となっている。

2015年10月7日の第5ステージでツール・ド・シンカラはようやく折り返しをこえた。昨晩に長距離移動をこなしたご褒美か、これから綺麗なホテルで三連泊。シンカラにおける預言者、初山氏は、レストランに入り、ビュッフェに並んでいるものをさっと一瞥すると、まあここならだいたい何を食べても大丈夫でしょうとコメントした。それでも当然グラスの水は飲まないし、カットフルーツは食べないし、コメ以外はさほど量をとらない用心深さをみせている。初山や内間のようなシンカラマスターたちは、日本からもってきた鯖缶やら、鶏の水煮、親子丼のレトルトを食べて、現地の料理を食べる機会を最小限に抑えている。

ホテルからほど近く、森の薄暗い谷間からレースが始まる。この日がクイーンステージと呼ばれており、全長は164キロ。山岳が3級、級なし(でも3級ぐらい)、1級、2級、下ってゴールのレイアウト。最初の3級がスタート直後にあるために、みなかなり警戒している。ニュートラル区間があるが、ウォーミングアップする選手も多い。

昨日で身体は動くことがわかったので、今日は着をとりにいく日だ。

オープニングは神々の戦いで始まった。第X次イラン(青)vsイラン(赤)戦争(Xは厳しい山岳のある近年のアジアツアーの回数をいれよ)である。最初の3級山岳で、大方の選手は逃げが決まるかもしれないから、前々でいこうぐらいの心もちだったと思う。現実は散発的な青いジャージのタブリズのアタックと、それを封じ込める赤いリーダーチーム、ピシュガマンの超高速ペース。登りに入ってすぐに次々に中切れが起こり、前方のイラン勢+じっと耐えているだけの20人ぐらいで山頂を越える。イラン勢は下りが苦手なので、少し落ち着きを取り戻す。しかし、振り返っても残りの70人の姿はない。

レース開始20キロぐらいで30人がばっくりと後方に2分差をつけてしまう。下りきって後方と合流するかとおもいきや、タブリズが強引にアタックを始める。メーター読みで時速50キロと60キロの間ぐらい。ヨーロッパツアーの平坦を思わせる強烈な速さを、10人に満たないイラン勢で生み出している。タブリズが僕らにもアタックに加われというジェスチャーを送ってくるが、ついているだけでいっぱいだ。戦争はしばらく続く。長いよ。僕らはとりあえずしがみついて恐れおののいている。今日は完走30人になってしまうのか?

いちおう彼らも人間らしく、息を切らし始めて一時休戦となる。タブリズが疲れをみせている。ピシュガマンも高速巡航を保って、アタック封じ込めをするほどペースを上げられない。後方との差がじわっと縮まってレースリセットに向けて休戦状態が広がった。

明らかにチャンスである。座してこの時を待っていた僕は、飛び出すだけの脚がある。後は、ある選手が言ったように、「アタックがうまくいくかどうかは、その選手の脚じゃなくて、集団の機嫌だよ」ということである。許されるメンバーとタイミングを絶妙についた時のみ、逃げは決まる。本当は脚も大事ですけどね。

「いってきます!」という呑気なコメントを内間に残してアタックし、タイムトライアルモードに突入した。しばらく平坦だったので、踏むのと踏まないのとではあっという間に差が開く。最初のショックが大事だ。そのショックの間にどれだけ差を開けるか。5分まずは全力で踏む。逃げを確立できれば、落ちついて回復させればよい。

数分でまず一人合流がきた。蛍光イエローのジャージを着て、スキンヘッドの故マルコ・パンターニにそっくりの選手だ。しかし、追いついてきたはよいが、全く引いてくれない。イランの手先か!?(Are you an assist of Iranians!?)と叫んでみるが、お前のパワーは大したもんだ!(You have huge power!)と返される。ほんとに脚がないらしい。あまりあてにならない最初の道連れ。

次に、タブリズのイランチャンプと、セブン-イレブンチームのフィリピン人がやってきた。タブリズが入れば、後ろでおさえてくれて大変ありがたい。総合で遅れている選手だから、ピシュガマンも無理には追ってこない。理想的な逃げになって形が決まった。さあ、長い一日になる。

登りにはいるとすぐにローテーションはぎくしゃくし始める。どうやらパンターニ似の選手と、セブン-イレブンは全然脚がないようだ。ほぼ僕とイランチャンプで回す。イランチャンプは大柄で190近くあり、平坦が得意な若い選手だが、登りもかなりこなす。しかし、純粋な登りなら分がありそうだと感じた。

下りに入って、最も登りで苦労していたパンターニ氏の美点が明らかになる。下りが上手い。パンターニ氏以外が下手すぎるという疑惑はおいておく。彼がワインディングの高速な下りをリードし、残り3人は苦労して下る。

レースはようやく半分を消化し、ポイントとなる1級山岳に突入する。ピシュガマンが強欲にも攻撃をここでしかけ始めれば、僕らを食いながら集団が崩壊するに違いない。攻撃しないまでも、3分ほどある差を維持しなくては逃げ切りはおぼつかない。山頂までの距離と、それからの道のりをはかりながら、淡々とペースアップをしかける。すぐにイランチャンプと2人になった。

2人で粘る。やはり後方のペースアップがあったようで、1分差とコールされてひやりとする場面もあったが、すぐに2分ぐらいに戻す。きつい時間帯だが、ここをクリアしないとチームのためにも、逃げ切りのためにも意味がない。多分後ろも地獄のはず。

登りをどうにかクリアしてテクニカルな下り。途中路肩から水が湧き出て路面が濡れており、危ないなとおもったら相方がしっかりドリフトしてひやっとする。数分後、集団内ではここで落車が多発していた。中腹を過ぎて街中に入ると、ものすごい数の住民の歓声が耳に響く。自分が普段の生活で歩いている坂道を、時速70キロでぶっとんでいく自転車をみるのは、なかなかおもしろそうだ。

下りきってしばらく緩い登り基調。差は2分と3分の間。残りは約40キロ。ラスト20キロはダウンヒル。逃げきりの可能性はあるか。
数週間前のツール・ド・北海道のことを考えずにはいられなかった。