2015年11月19日木曜日

2015ツール・ド・シンカラ その7

ここまで

9ステージという超長丁場のツール・ド・シンカラ。第5ステージでステージ2位に入り、戦果をあげた。ようやく半分を折り返したが、選手は消耗が激しい
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僕が所属するブリヂストン・アンカーには、トマ・ルバ(Thomas Lebas)というフランス人選手が2012年から所属している。彼はアンカーに所属する前は長らくフランスのトップアマチームで走っていたが、アマといっても競争の激しいフランスのロードサイクリングにおいて立派なステータスのチームにいた。若いころにヨーロッパのトップチームに上がるチャンスを逸しただけ、というのが衆目一致するところだと思う。実際彼は現在実力的に、プロコンのエース級クライマーをも凌ぐ力をもっている。ストイックで、脚は針金のような細さにいつも仕上がっている。穏やかで、宮沢賢治みたくいつも静かに笑っている。ロードサイクリングの世界に転がっている理不尽に直面しては、だまって首を振り、めげずに場をやりすごす。疲れやいらだちを表情にめったにださない。

そのトマが第5ステージを終えた夜、心持ち青い顔で夕食はスキップするといって会場までいかなかった。普段は厳しく節制しても、レースのときにはきっちりとエネルギー源を確保するトマ。特にステージレースで安定感のある彼が、レース中の食事を抜くというのはなかなかのことである。ただし、表情が穏やかすぎてその苦しみはあまり推し量ることができない。一方で自分もレース後の移動の車から、じくじくと腹が痛い。胃のむかつきも感じる。とにかく明日のことを思い、米をふりかけで押し込む。

若手の椿は夕食会場に現れすらしなかった。ひどい腹痛と発熱で苦しんでいるという。僕自身もスタッフから事情聴取されたが、病的な感じはその時点ではまだ少なく、今日のステージの激しい疲労から胃腸が弱っているのではないかということで、対処方法はよく眠るしかなかろうということになった。

しかし時間が経つにつれて、症状はおさまるどころか悪くなる一方だ。あまりにもトイレにいく回数が増えるものだから、インドネシアのトイレにもれなく設置されている、手で狙いをつけるウォッシュレットの使い方まで覚えた。やってみると案外快適で、他のなによりもインドネシアに溶けこんだ気分を感じる。モロッコの薄暗い公衆浴場「ハマム」で風呂に入ったのと同じぐらい文化的浸され度合いが深い。悪寒を感じたので熱を測ったところ、立派に発熱していたのでこれはもういかんと思って、レースドクターを呼び、診察を受けて薬をもらった。レースドクターによれば疲労と森林火災の煙で身体が弱っているからだという。胃薬と下痢止めと解熱剤をもらった。各々の症状に対処するというのはわかりやすいが、なにか根本的な原因へのアプローチが必要なのではないかとひどい気分で漠と思う。

できることは特にない。意識にのぼるのは、空白の時間と、ときおりの苦痛と、近づきつつあるレース上での死。このままの状態で朝を迎えれば、明日のステージを走りきれないのはまず疑いがない。自分が打たれている戦争動画をスローモーションでみているような気分で時間を過ごす。戦争じゃないから本当に死なないけれども。

翌朝になっても症状はよくならず、初山だけが朝食会場に行った。初山が帰ってくると、レースキャラバンの半数は倒れているのではないかという知らせをもってきた。トマと椿も出走は厳しい。僕も監督と話して第6ステージの出走を取りやめた。

最後の望みは主催者がステージをキャンセルすることだった。数チームが全滅し、総合リーダーもやられていることから、まあまあ現実味のある話だ。インドネシア人もやられている。れっきとした食中毒だ。胃腸が弱くて現地の食事になじまないみたいなヤワな話じゃない。日本だったら保健所が来て、地方紙とローカルニュースにでも取り上げられて大会が即刻中止になりそうだが、インドネシアだからなにごともなくレースは続く。

一応レースは大部分が選手による自主的なニュートラル状態で行われたらしい。選手が次々にコースの途中でトイレットペーパーを持って(賢明だ。第3ステージの僕のような目にあいたくなければ)トイレに駆け込みながら行進は続いたとのこと。最後30キロだけレースとして走ったらしい。その30キロ中唯一の登りで、腹痛で苦しむピシュガマンの総合リーダーを、別のピシュガマンの選手が置き去りにしてリーダーを奪っていった。世知辛い世の中だ。

前日の僕が入賞したステージだけでも驚くべきことに16人も消えていたが、今日は出走しない選手が多数で17人が新たに消えた。残りは74人。完走した選手でも20人ほどは体調を崩しながらギリギリだったらしい。実際最終的に9つのステージを完走したのは59人だった。

ここで僕のシンカラはついえる。このあと、2日高熱をだした後に自前の抗生剤でようやく快方に向かった。やっぱり抗生剤が必要だったじゃないか、ぶつぶつ。それから部屋がどぶねずみみたいな臭いがする民宿で、愛三の2人が外のホースで身体を洗っていたり(結構寒いけど、これが一番清潔だと言っていた。その通りだった。)、うらぶれた遊園地のコテージに泊まったり、再びパダンの瘴気の中で練習したりした。

あまりにも多くのことがありすぎて、ここには書ききれないこともたくさんある。初めての東南アジアツアーの体験が鮮烈すぎてまじめにブログを書き始めたら、とんでもない長さになっていつまでも終わらないことに。それでもここまで読んでくれた人がいたら嬉しく思います。

これだけのことがあっても、インドネシアには憎めないところがある。それは人につきる。誰もが親切で、僕らに興味をもって世話をやいてくれようとやっきだった(ときどきそれがあさっての方向へ飛んでいくのだが)。第5ステージで逃げている時の沿道の人びとの大歓声と表情は忘れられない。多分、自分の走りで知らない人を生きているうちで一番興奮させることができたんじゃないかという瞬間だった。本当に自分がロックスターになったような気分で頑張れた。

通訳のファイサル氏しか読めないかもしれないが、インドネシアに感謝!
これを書き終えてようやく本当のオフシーズンをむかえた気がする

photo by Sonoko Tanaka

2015年11月12日木曜日

2015ツール・ド・シンカラ その6

ここまで

疲労の色の濃い集団で、全ステージ中最も厳しい山岳を含む第5ステージに突入。序盤のイラン勢の打ち合いが落ちついたのをみはからって逃げに乗り、一番厳しい山を超えた。相棒のイランチャンプと2人で数分の差をもって残り40キロ。
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ロードレースにおいて、残り40キロで2〜3分差というのは、十分な差とはいえない。むしろ厳しい。俗に言われるのは、10キロ1分ルールだ。標準的な逃げと、標準的な大集団なら、大集団が意思をもてばだいたい10キロで1分ずつ差を縮めることができると言われている。これがプロ選手なら誰もが知っている経験則(a rule of thumb)だと思う。

例外はたくさんある。今回のようにまだアップダウンが残っており、予想の斜め上ばかり起こるレースでは番狂わせを演じる要素がいっそう残っている。

しかし僕は全く別に、この時点で逃げ切りはありうると直感していた。それは飛び出す前の集団の雰囲気であり、コースの雰囲気であり、相方のイランチャンプとのローテーションの滑らかさといったさらに高度な情報を判断に上乗せできるようになっているからだと思う。

もちろん本当に「勘」違いかもしれない。誰かが言ったように、「アイデアはそれほど重要じゃない。実行こそが困難だ」ということかもしれない。だが、逃げ切りを見すえた逃げ方と、アシストとしての効果を求める逃げ方は違うので、どういう気構えで逃げるかは大事だ。

イランチャンプも自分も、ひっきりなしにチームカーを呼ぶ。僕ら2人のすぐ後ろに2台のチームカーが走っているだけだから、普段の長い隊列に比べて格段に呼びやすい。余計なボトルは持たず、少しでも運ぶ重量を減らし、後ろの集団の情報をまめに聞く。突発的に後ろがペースアップを始めたら、合わせて一気に踏むつもりでいる。

「うしろもね、結構消耗しているから逃げ切りを視野に!」と監督が話しかけている。「最後下り基調だけど、どこかでアタック!」と指示があった瞬間に、さっと相方がこちらに視線を飛ばした。

「アタックって単語を使わないでください」と声を下げて返す。「攻撃とか、日本語でいってください!」監督は苦笑して下がる。

僕はザバスゼリーバーなぞをもらって補給食にしているが、イランチャンプはみかんとか、パンとかを食べていた。ワイルド。少し不格好で癖があるけれども、力強いペダリング。若い選手だが、白基調のナショナルチャンピオンジャージからは、あの怪物じみた選手の集う国のチャンピオンだという誇りが伝わってくる。

お互いにコースの得意不得意を分業して、登りのペースを僕が作り、下りで彼の体重を活かして高速で下る。2人で1つの構造物のようながっちりとした走りを組み立てていく。初対面の日本人とイラン人が、インドネシアの山道で隙のない走りを作り上げている様にポストモダニズムを感じる。

ラスト20キロ、差は変わらず。道は下り基調になった。体重の分だけ相手と似たような分量を引くのがきつい。しかし気持よく回っているこのローテーションを崩してしまえば、あっというまに後ろは僕らを捕らえてしまうだろう。総合逆転をかけて逃げた、シンカラ直前のツール・ド・北海道ではまさにそういう失敗をした。今回こそは。

ラスト10キロで2分差がオートバイから告げられると、お互いに少し微笑みを交わした。

登りが出てこないことに焦る。平坦の馬力では190センチはあろうかという大型の相方にはかないそうにない。残り距離が減っていく中、思い切った牽制もできず、ひたすら時計のように正確にローテーションを刻んでいた。こうなったら真っ向勝負と腹をくくる。

1キロの表示をみて、アタックに反応できるように心と身体の準備をする。しかし、ラスト800メートルで先頭をかわった瞬間に、明らかにこのタイミングでくると予想もできたアタックにつけなかった。イランチャンプは鋭く加速し、日本人でなかなか見ることのできない、大型選手がみせる力づくの巡航に突入した。

まずは冷静になれと自分にいいきかせる。アタックを外した以上はゴールラインまで最短の時間で到達するというシンプルな問題に集中する。ラスト400メートルでやや登り基調になり、前方でイランチャンプが苦しんでいるのが確認できたが、差が縮まらない。そのまま苦しみぬいて、結局ギャップを埋められずにゴールした。

ゴールラインで待っていたスタッフのところで、スプライトを受け取ってゴクゴク飲む。こういう時の炭酸飲料は、ヘルシーさとか、カロリーがどうとか、日本のお上品な清涼飲料水の謳い文句が馬鹿らしくなるぐらい、原始的なおいしさを感じる。普段日本では、そんなに飲まないんだけれど。

一寸先にゴールしたイランチャンプと握手して、おめでとうと言って握手した。彼には負けたが、少なくとも今日はオッズに勝ったと思った。どこかの賭場で「このアタックが捕まるか?」が持ちだされたとしたら、きっと捕まる方に賭ける人が多かっただろう。逃げ切りは、いつもある種の奇跡だから面白いと思う。

メイン集団もゴールして、例のごとく現地の子どもたちが選手テントをぐるりと取り囲み始める。最初のうちはまわりを囲んでいるだけだが、いつも何かのきっかけで防衛線は崩壊して、写真を取らせろ攻撃に囲まれる。シンカラ地方の子どもたちのスマートフォンには、疲れてちょっとひきつった顔をした自転車選手と写ったセルフィーがたくさん残されているはずだ。

レース後にはプールサイドで昼食が供された。僕は身を削らんばかりの走りをしすぎたせいか、食欲があまりわかずに少しライスとスープを食べただけだった。他のメンバーは元気に肉を食べた選手もいたし、パスタや米だけ食べていたりとあまり共通しているところがなかったように記憶している。

この食事の内容を後から何度も述懐することになる。それは、その晩から一人、また一人と選手が倒れ始めたからだった。


2015年11月2日月曜日

2015ツール・ド・シンカラ その5

日を追うごとに景気よく集団は小さくなっている。もともとコースが厳しいから、弱い選手は生き残れない。近くでおきている森林火災の煙幕と、排ガスで呼吸器系にも負担がかかる。なによりも胃腸の不調を訴える選手が多い。冗談みたいなドタバタ劇の犠牲になる選手も少しいる。

前日の第4ステージだけでも13人がいなくなった。内訳は2人DNS(Do not Start 出走せず)で、10人がDNF(Do not Finish 時間内に完走せず)、1人がDSQ(Disqualified 失格)となっている。

2015年10月7日の第5ステージでツール・ド・シンカラはようやく折り返しをこえた。昨晩に長距離移動をこなしたご褒美か、これから綺麗なホテルで三連泊。シンカラにおける預言者、初山氏は、レストランに入り、ビュッフェに並んでいるものをさっと一瞥すると、まあここならだいたい何を食べても大丈夫でしょうとコメントした。それでも当然グラスの水は飲まないし、カットフルーツは食べないし、コメ以外はさほど量をとらない用心深さをみせている。初山や内間のようなシンカラマスターたちは、日本からもってきた鯖缶やら、鶏の水煮、親子丼のレトルトを食べて、現地の料理を食べる機会を最小限に抑えている。

ホテルからほど近く、森の薄暗い谷間からレースが始まる。この日がクイーンステージと呼ばれており、全長は164キロ。山岳が3級、級なし(でも3級ぐらい)、1級、2級、下ってゴールのレイアウト。最初の3級がスタート直後にあるために、みなかなり警戒している。ニュートラル区間があるが、ウォーミングアップする選手も多い。

昨日で身体は動くことがわかったので、今日は着をとりにいく日だ。

オープニングは神々の戦いで始まった。第X次イラン(青)vsイラン(赤)戦争(Xは厳しい山岳のある近年のアジアツアーの回数をいれよ)である。最初の3級山岳で、大方の選手は逃げが決まるかもしれないから、前々でいこうぐらいの心もちだったと思う。現実は散発的な青いジャージのタブリズのアタックと、それを封じ込める赤いリーダーチーム、ピシュガマンの超高速ペース。登りに入ってすぐに次々に中切れが起こり、前方のイラン勢+じっと耐えているだけの20人ぐらいで山頂を越える。イラン勢は下りが苦手なので、少し落ち着きを取り戻す。しかし、振り返っても残りの70人の姿はない。

レース開始20キロぐらいで30人がばっくりと後方に2分差をつけてしまう。下りきって後方と合流するかとおもいきや、タブリズが強引にアタックを始める。メーター読みで時速50キロと60キロの間ぐらい。ヨーロッパツアーの平坦を思わせる強烈な速さを、10人に満たないイラン勢で生み出している。タブリズが僕らにもアタックに加われというジェスチャーを送ってくるが、ついているだけでいっぱいだ。戦争はしばらく続く。長いよ。僕らはとりあえずしがみついて恐れおののいている。今日は完走30人になってしまうのか?

いちおう彼らも人間らしく、息を切らし始めて一時休戦となる。タブリズが疲れをみせている。ピシュガマンも高速巡航を保って、アタック封じ込めをするほどペースを上げられない。後方との差がじわっと縮まってレースリセットに向けて休戦状態が広がった。

明らかにチャンスである。座してこの時を待っていた僕は、飛び出すだけの脚がある。後は、ある選手が言ったように、「アタックがうまくいくかどうかは、その選手の脚じゃなくて、集団の機嫌だよ」ということである。許されるメンバーとタイミングを絶妙についた時のみ、逃げは決まる。本当は脚も大事ですけどね。

「いってきます!」という呑気なコメントを内間に残してアタックし、タイムトライアルモードに突入した。しばらく平坦だったので、踏むのと踏まないのとではあっという間に差が開く。最初のショックが大事だ。そのショックの間にどれだけ差を開けるか。5分まずは全力で踏む。逃げを確立できれば、落ちついて回復させればよい。

数分でまず一人合流がきた。蛍光イエローのジャージを着て、スキンヘッドの故マルコ・パンターニにそっくりの選手だ。しかし、追いついてきたはよいが、全く引いてくれない。イランの手先か!?(Are you an assist of Iranians!?)と叫んでみるが、お前のパワーは大したもんだ!(You have huge power!)と返される。ほんとに脚がないらしい。あまりあてにならない最初の道連れ。

次に、タブリズのイランチャンプと、セブン-イレブンチームのフィリピン人がやってきた。タブリズが入れば、後ろでおさえてくれて大変ありがたい。総合で遅れている選手だから、ピシュガマンも無理には追ってこない。理想的な逃げになって形が決まった。さあ、長い一日になる。

登りにはいるとすぐにローテーションはぎくしゃくし始める。どうやらパンターニ似の選手と、セブン-イレブンは全然脚がないようだ。ほぼ僕とイランチャンプで回す。イランチャンプは大柄で190近くあり、平坦が得意な若い選手だが、登りもかなりこなす。しかし、純粋な登りなら分がありそうだと感じた。

下りに入って、最も登りで苦労していたパンターニ氏の美点が明らかになる。下りが上手い。パンターニ氏以外が下手すぎるという疑惑はおいておく。彼がワインディングの高速な下りをリードし、残り3人は苦労して下る。

レースはようやく半分を消化し、ポイントとなる1級山岳に突入する。ピシュガマンが強欲にも攻撃をここでしかけ始めれば、僕らを食いながら集団が崩壊するに違いない。攻撃しないまでも、3分ほどある差を維持しなくては逃げ切りはおぼつかない。山頂までの距離と、それからの道のりをはかりながら、淡々とペースアップをしかける。すぐにイランチャンプと2人になった。

2人で粘る。やはり後方のペースアップがあったようで、1分差とコールされてひやりとする場面もあったが、すぐに2分ぐらいに戻す。きつい時間帯だが、ここをクリアしないとチームのためにも、逃げ切りのためにも意味がない。多分後ろも地獄のはず。

登りをどうにかクリアしてテクニカルな下り。途中路肩から水が湧き出て路面が濡れており、危ないなとおもったら相方がしっかりドリフトしてひやっとする。数分後、集団内ではここで落車が多発していた。中腹を過ぎて街中に入ると、ものすごい数の住民の歓声が耳に響く。自分が普段の生活で歩いている坂道を、時速70キロでぶっとんでいく自転車をみるのは、なかなかおもしろそうだ。

下りきってしばらく緩い登り基調。差は2分と3分の間。残りは約40キロ。ラスト20キロはダウンヒル。逃げきりの可能性はあるか。
数週間前のツール・ド・北海道のことを考えずにはいられなかった。

2015年10月28日水曜日

2015ツール・ド・シンカラ その4

これまで

9ステージからなる、ツール・ド・シンカラ。第1ステージが一部選手のコースミスでキャンセルになったり、第2ステージでイラン勢が大暴れしたり、第3ステージで下痢で道端に止まっていたらオートバイに轢かれたりして、命からがら3ステージを終えたのであった。
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10月6日の第4ステージは第2ステージに続く登坂総力戦のリターンマッチである。超級と2級の山岳を含み、特に一発目の超級は強烈だとのことだ。このままだとイラン勢が登りで飛んでいって、大勝してしまう可能性は高い。昨日のゴタゴタで自分は意気消沈していた。緩い腹は治りきらず、食欲は戻らない。生き残りをかけて戦う他ないと思われた。

この日はレース終了後の移動が200キロある。ヨーロッパならば2時間と少しで見積もる、どうということもない距離だろう。日本なら、まあ少ししんどいが3時間のドライブだろうか。だがインドネシアでは、延々と続くうねった山道を、4〜5時間移動することを意味する。高速道路などというものは存在しない。レース中は気にしてもしょうがないが、気が重くなる。

スタートからイラン2チームの直後に陣取り、我らがブリヂストンアンカーの士気は高いーーー僕を除いては。とりあえず腹痛はなかったものの、もう気楽に後方についていく他ない。生き残れたらめっけものだと思っている。途中内間の単独アタックなどもあったが、ピシュガマンは相当この日やる気らしく、逃げも長くはださない。ペンペン草も生えない。

前年に経験者がいるシマノレーシングチームの数名が、登り始めが近いと話しあっている。集団は殺気立って位置取りが激しくなってきたが、わりきって最低限のポジションを守るのみにする。

超級山岳の登りは、初めからキツく、いきなり集団がはじける。1時間ある登りだが、開始5分でオールアウトしている選手が降ってくる。自分は集団中盤から淡々とタイムトライアルモードで登っていく。昨日の今日だが意外と調子は悪くないかもしれない。

次々に選手を抜いていくと、チームメイトの初山とダミアンにまで追いつく。後はアシストとして、山頂まで引き倒す。初山の総合の遅れを最小限にするのが目標だ。山岳エースのトマはさすが、イランの列車に乗れたようだ。山頂で4分差、登り一発で絶望的なギャップだ。イラン列車に乗れた非イラン人はトマとキナンチームのジェイ選手のみ。

アンカーから4人を含む、安定した第2集団をつくって綺麗に回していくが、1秒たりとてギャップの縮まる気配がない。むしろ開いている。こちらは完全に協調している。人数はほぼ互角だが、向こうにはトマとキナンチームのジャイ選手が重しをしているはずだ。しかし距離を消化するにしたがって、1分、また1分と開き、合流は絶望的になった。最後の登りで先頭集団は戦争をやっていたらしいが、こちらはあくまで協調してゴール。トマがステージ2位で、初山に続いてまたも表彰台を取ったのが救いだった。やれることはやったが、この時点で総合のカードが消えた。

レース後の移動に使う、16時発のバスに乗り込む。このバスは少し古びているものの、ちゃんとしている。一点目を引いたのは、大型のスピーカーが荷棚として空いているべき上方の空間を、ずらっと埋めていたところである。

バスが出発するとすぐに、大音量でダンスミュージックをスピーカーが鳴らしはじめる。レース後の身体にキンキンくるな、と思いながら200キロ先のホテルがまともであることを願う。そのうちバス運転手が本性をあらわす。

インドネシアに来てから、運転手たちが容赦なく前方の車に追い抜きをかけ、最小限の減速でコーナーをクリアし、僕らを車酔いにおとしいれることは既に書いた。朴訥にみえたバス運転手も例外ではなかった。しかし、いったいバスの機動性でなにができるのでしょうと、日本の(もしくは世界の大多数の)バスしか知らない方は述べられるかもしれない。彼の地のバスは、通常のバスの概念をはるかに超えている。コーナーリングで感じる横加速度、登りのパワー、追い抜きの機敏さ、どれをとってもバスとは思えない。東京都営バスでこんな運転を披露すれば、おばあちゃんが数人泡を吹いて倒れるだろう。

シンカラ湖(レース名はこの湖からきている)に向かう山道のワインディングの凶暴なリズムと、立派なスピーカーから流れる大音量のダンスミュージックは不思議とよくマッチしていた。眠りたいが、揺れがひどすぎて、吐き気とともに目が覚めるのがおそろしかった。いつしか日も暮れて、バスの揺れと夕闇とダンスミュージックと外のライトが過ぎ去る様子が、どこまでも現実ばなれして脳裏に残った。

長い移動もいつかは終わる。21時頃にこの遠征の中で2番めにまともなホテル、ロッキーホテルにたどりつき、遅い夕食をすませて床についた。

2015年10月17日土曜日

2015ツール・ド・シンカラ その3

10月5日は比較的平坦な第3ステージが用意された。前日にいきなり総合で決定的な動きが決まったために、リーダーチームもはっきりとして安定したレースとなるはずだ。ふりかえると、まあとりあえずレースは安定していた。安定していなかったのは僕である。

スタートラインまでは7人乗りのトヨタに例のごとくぎゅうぎゅう詰めで移動する。この国に来てから日本車の優秀さをあらためて実感する。スタート近辺はくねった一車線で、周囲はいまにもオランウータンが現れそうなほどうっそうとしている。道も荒く、しばしばオフロードになる。しかし運転手のブンガ氏(推定40)はまったく怯むことなく、エンジンの回転数3000以上を保って、軽快にコーナーリングを決めていく。スタートラインにつく頃には、まず車酔いやら移動の疲労を回復しないとしばらく動けない。

丘の上の原っぱがチームのパーキングである。サインのための公園のようなところでは、インドネシアの民族舞踊のようなものが披露されている。失礼ながらこの手の出しものは、正直退屈なものが多いと思うが、今回のものは良かった。音楽はリズミカルながら複雑で変化に富む。皿を持って行う舞踊も目新しい。

チームパーキングはあまり快適とはいいがたいので早めに並ぶ。スタート2分前ぐらいに軽く腹に差し込みがある。実はその日までに腹がゆるくなっていた。食事と水があわないためだと思うが、僕に限らず皆下痢気味だ。スタート前にトイレに駆け込む選手も多い。しかし、流石にスタートが迫りすぎていたために、サドルに座ってしまえばなんとかなるであろうと高をくくってスタートした。

スタート後も一向に状況は良くならない。むしろ悪化している。リアルスタートが切られてからは腹圧を高めて体幹を安定させる必要もあってよりつらい。逃げ切りの可能性のある逃げ集団を作るべく、昨日のように前方で展開しなくてはならないのだが、それどころではない。

スタート後30分もする頃には、肛門括約筋に意識が集中するあまり、脂汗をかいていた。ダンシングは限りなく危険な行為になった。シッティングを限界まで利用しながら、「シッティングの新たな地平を切り開く」などと考えて気を紛らわせながらペダリングをする。学生時代にトラックレーサーで、シッティングのまま加速する方法を練習したなどと考える。

しかし限界がある。これは先輩諸氏の武勇談に聞く、レース中に民家でトイレを借りるパターンだと覚悟を決める。せめてアタック合戦が終わって欲しいが、こういう日に限ってなかなか決まらない。レース時間1時間を超えて、道が広くなり、ややペースが緩んだところで、ここしかあるまいと思って民家を探し始める。

比較的見通しのよい直線路の右手に小さな商店があり、数人が店先で応援している。きっと奥にトイレもあるだろう。左車線の国で右側に止まるのは行儀が悪いが、トラブルで機材交換などをするわけではなく、すぐに走り出すはずなので大丈夫だろうと考え(大甘だった)、住人の前に停止する。

驚いた様子の住人にとりあえず「トイレ!」と叫ぶ。一応伝わっているようで、おお、という感じで彼が後方、店の奥を示してくれる。

その時、右手からーーーつまりレース後方から、マーシャル(レース中の安全確保を行う人)のオートバイが近づいて来るのが右目の端っこにみえた。僕が停止しているのを発見して、トラブルかどうか確認しにきたのだろうと直感的に思った。これで無線によってチームカーへ僕が停止していることが伝われば、復帰が少し楽になるとも思った。

が、オートバイのスピードは緩まず、ギリギリでフルブレーキを始め、横転してスライディングを始めた。そのまま僕をまあまあの衝撃で自転車ごと突き飛ばして転がった。現地住民たちは大騒ぎである。オートバイのライダー二人は転がってうめいている。僕はとりあえず自転車を放棄して立ち上がり、突き飛ばされた衝撃で膝から血をだらだら流しながら、住民になおもトイレを迫った。もう極限である。轢かれた擦過傷よりも腹が限界。

住人は僕の傷に目を奪われながらも、とりあえずトイレにつれていってくれた。後方でチームカーが到着して、メカの中山氏がなにか叫んでいたがとりあえず腹がそれどころではない。こちらは最中に紙がないことに気がついて、愕然としていたが、もはや勢いで現地の手法にのっとる。現地の人たちはそれで用が足りているのだからあたりまえだが、意外とクリーンにできた。

道路に戻るとディレイラーとエンドがへし曲がった自分の自転車が回収され、代車が用意されていた。すばやく飛び乗って、カーペーサーにしばし集中する。

どうにかレースに復帰したが、もはやなにもできる身体状況ではないので、おとなしく集団後方にぶらさがっている。幸いレースも落ちついていた。

レース終盤に再び差し込みがあるも、なんとか耐え切る。レース後に3回ぐらいトイレにこもり、現代的なトイレ設備に感謝した。昼食はほとんど喉を通らなかった。これで3/9である。まったく先が思いやられる。翌日の超級山岳を含むステージを考えて暗い気持ちになった。

2015年10月15日木曜日

2015ツール・ド・シンカラ その2

翌日10月4日が第2ステージにして、実質の第1ステージだ。ピシュガマン、タブリズペトロケミカルというツアー・オブ・ジャパンでも他チームを山岳コースで蹂躙したイラン2チームが、遺憾なく力を発揮することのできる1級山岳を後半に含む。総合争いがいきなり激しく展開されることが予想された。

この日について重要なことは、レース展開についてまともに議論できる唯一の日だったということだ。それは、9日間ある僕のツール・ド・シンカラの中できら星の如く輝く唯一の日だった。その後の日々はありとあらゆるトラブルと共に語られる。

スタートから僕は攻めた。序盤道が細い区間、平坦区間でどうにかイラン勢からリードを奪えるような逃げを作り、登りで先行したい。いわゆる先待ち作戦だ。これが成功しないかぎりうちのチームではなかなか望みがない。

いくつもの小集団が形成され、そのたびにイラン勢がプロトンを回してレースをリセットする展開が続く。

道幅が広く、見通しのよい、集団が圧倒的に有利な区間に来て皆が逃げをためらい始めた。そして、力的に見劣りしそうなチームの逃げをイランが容認し始め、ぽつぽつと逃げ集団が形成されていく。これは登りで勝手に帰ってくるパターンの逃げで、安全だーーーイランにとっては。そして完全にドアが閉じられそうな瞬間に初山が無理やり飛び出してここまで容認された。列車の駆け込み乗車のようなもので、次に和郎さんがいこうとしたら一瞬でシャットアウトされた。

初山が入っただけでもかなり有利だ。そのまま平坦区間を消化して初山含む逃げと間隔を保ちながら勝負の1級山岳へ

が、僕自身は早々に脚が動かない。あきらかに普段より早く限界に到達する。インドネシア生活のストレスと空気と、なんやらかんやらにやられている。登り半ばですでに死にそうになりながらチームメイトや他チームの猛者たちをふりちぎっていく赤いピシュガマン列車を目撃して残りは完走を目指す。

自分はいいところなくその日を終えたが、初山がそのまま猛追してきたピシュガマン列車に下りで合流し、ステージ3位を獲得した。しかし、それ以外は全員ほぼ総合を失うという手痛い結果となった。後ほどそれどころではなくなるが。

レース後、次の宿へと移動する。警察の先導がないと絶望的な交通事情で移動は遅々として進まない。インドネシアに来ると、車検という制度がいかに交通を円滑に行うために重要かがわかる。渋滞の主な原因はポンコツ車のスピードが30km/hぐらいしかでないことで、坂ではそれがさらに悪化する。これを追い抜くためにこの国でまともな車に乗ったドライバー(例、大会の車)たちはみなありえないタイミングで追い抜きをかける。対向いるし、ブラインドコーナーだし。神仏に頼るというか、「南無阿弥陀仏!」と真剣に一度叫んで和郎さんに大笑いされた。ポンコツ車は排ガスも悲惨だ。両方日本並みの基準の車検で解決できる。車検なんてものは現代において官僚の天下りと余計な社会的なコストを生んでいるだけじゃないかと疑っていたそこの君(僕だ)、インドネシアで車検の有り難みを目撃するといい。

そしてホテルについたはよいが、別送のスーツケース類は数時間やってこなかったため、シャワーやら身の回りのことに大変な苦労をした。そこから我々はホテル到着後すぐに必要なものは、絶対手荷物から離さないことを学んだ。この国では人に預けた荷物はいつ帰ってくるかわかったものではない。やれやれ。ちなみにホテルに到着したとき、僕らはホテルとは信じられず、民家だと思った。一室は天井が抜け落ちていた。ここに二泊である。経験者初山いわく、去年泊まった山小屋のような宿ではなかったので喜ぶべきだとのこと。ものごとには全て明るい側面がある。

翌日は数少ない平坦のステージである。さてちょっとは、息抜きができる日になるのであろうか。

2015年10月14日水曜日

2015ツール・ド・シンカラ その1

先週はインドネシアでツール・ド・シンカラという9日間のステージレースを走ってきました。

自身で初めての東南アジアでのアジアツアーレース。先輩諸氏によれば、アジアツアーはレースで最強なだけでは勝つことができず、人類完成体としての強さが求められるという。数あるアジアツアーの中でも、インドネシアはかなり高レベルだとのことだ。主に衛生概念と暑さ的に。

ロードサイクリングは、それなりの速度でグローバル化を遂げている。僕のキャリアの間だけでも、確実にいくつかの非伝統国が伝統国に伍するようになりつつある。それと歩調をあわせて、これまでレースのなかった地方でレースが開催されるようになってきている。中でも発展途上国のいくつかでは、その経済成長の希望から、ロードサイクリングのような非採算的イベントに多額の資金を投じることもいとわない。ロードサイクリングがはっきりとした因果関係に支えられた、採算事業でないことは、システム的病なのだが、それはまた別の話。

インドネシアもその若々しい人口構成、人口そのもののボリューム、大きな経済発展の余地から、ある程度将来が約束された国の一つであることは承知のとおり。ホテルから一歩出て、パダンの混沌とした空港に通じるメインストリートを走行すると、その事実をひしひしと肌で感じることになる。小さな商店が通り沿いに立ち並び、食品、携帯電話、服飾、原付きなどを各々熱心に売っており、洗練されたとは言いがたいそれらの商店が活気をある様子は、まだ逃げが決まっていない、これからなんでも起こりうる、序盤のロードレースを思い起こさせる。

初日は夜遅くに、日本からパダンにたどり着いた。移動は丸々一日仕事だった。朝5時半に起床し、空港に向かい、昼前に飛行機に乗ってまず7時間でジャカルタにつく。2時間ほどの余裕をもったトランジットを挟んで、国内便でパダンの空港へ向かう。インドネシアは地図上で見る限り、よっぽどヨーロッパや中東よりも近そうに見えるが、案外着かない。心理的にフライトがヨーロッパ行きなどより長く感じられる。ガルーダ・インドネシア航空の機内メディアが揃える、日本語話者/英語読者(英語口語のリスニングは苦手だ)が気軽に楽しめる映画コンテンツがやや乏しかったのも影響している。今回は夏目漱石を愛用のKindleに何本か入れてきたので、「それから」をしばらく読みふけるが、文語体と筋の繊細さにそれなりに集中力を要求され、長時間は読んでいられない。機内の冷房は最強で、長袖と毛布にくるまって震えているレベルだった。

パダンの空港にたどり着くのは22時頃を回っていて、ロードレース遠征において例のごとく、大量の荷物を手荷物受取で集めるのに苦労する。スタッフも選手も使って総力戦である。出口にはさっそくファイサル氏という通訳が待っている。人がよさそうだ。大量の荷物は、我々の乗るバンとは別のトラックに積み込まれるが、大会側がいささか計画性に欠けるのと、手際が悪いので、長距離の疲労が少し増すように感じられる。しかし僕の方も、選手としてのキャリアの中で慣れてきたもので、これならオマーン/モロッコ/他任意のどこか、の方がよっぽど大変だったなと妙に落ちついている。日付が変わる直前にホテルの部屋に入れた。

朝8時まで死んだように眠る。ホテルはかなり豪勢なところだ。しかし備品というか、ハードウェアに対して、維持するための掃除とかにかなり問題があるらしく、高級そうな部屋のバスルームの天井はカビて台無しだ。それでも寝心地の良いベッドと、すぐに出る熱いお湯と、荷物を広げるのに十分なスペースに感謝の念が絶えない。結局のところ、僕らはバスルームの天井を眺めて過ごすわけではない。結局後ほどこのホテルがいかに素晴らしいところであったか思い知る。

なぜか昼間からまともに日が差さない強力な煙の中で練習をせざるをえない。聞くところでは、熱帯雨林の焼き畑が延焼したことによる森林火災で、周辺が全て煙に覆われているということだ。排ガスとわけのわからないものが腐った匂いと全てが入り混じり、さながら瘴気のようになって、激しく呼吸するスポーツには適切とは言いがたいが、慣れようと努める。

とりあえずレースまではまあまあ通常運行で準備をこなし、十分に睡眠もとってレース1日目を迎える。しかしここから全力でアジアツアーの本領が発揮される。

パレードがスタートしてしばらく、やたら細い道でプロトン全体が一時停止させられる。なにかセレモニーのようなことかと思ったが、どうやら様子がおかしい。

再スタートしてからもリアルスタートはなく、停止と再スタートを繰り返す。そのころにはプロトン内でも情報が入り、まずチームカーがどこかに消えてしまったということがはっきりとした。最初のパレードは市街地を数周するものだったのだが、周回を抜け出て待っているはずのチームカーやニュートラルの隊列が大部分消えてしまっているとのこと。

さらに、選手まで一部消えてしまっているとのこと。わけがわからなかったが、どうやらパレード中にメカトラにあってしまった選手が急ぎ機材調整を受け、集団に復帰しようと焦った際に先にコースに出てしまったようだとのこと、、、僕らがまだ周回している間に。その結果はどうなったかというと、この選手とこの選手のチームカー並びにその後ろだったチームカーがはるか前方を走っているらしい。さらに、この選手が初日でリタイヤという愚が頭にちらつくばかりに、コミッセールの停止命令をなんども振り切って(本人は遅れてリタイヤを宣告されていると思っている)いるので問題が拡大してしまったようだ。やれやれ

結局レース1/3ほどのところでコミッセールが事態の収集を図っている間に長時間の本格的な停止を強いられることになった。すると群がってくる人、人、人。。。好奇心の塊のような人々に圧倒される。「ミスター!フォトー!」と叫んでくる学生たちにどの選手も取り囲まれ、次々に記念撮影とあいなる。

そしてしっかり暑い。停まっていても水を被り、むせるような湿度に体力が奪われる。

結局レースはニュートラルとなり、ゴールまでは走るもののUCIレースとしてはキャンセルという扱いになった。ただし、賞金の配分は決めたいということで、残りたい選手だけ残って、ラスト10キロでよーいどんをやって、着順をつけるという。そんな危ないレースはやってられないので僕らは最後まで走らずにホテルに帰る。後ほど聞くところによると、10キロのロードレースはやはり危険で、落車が発生して怪我を負い、翌日出走できない選手がでたとのこと。

レースが1日も始まらない前からいきなりリタイヤがでた。これで1/9。もう5ステージぐらい走ったみたいな疲労感だ。やれやれ。

2015年8月10日月曜日

同じことを繰りかえすこと

 プログラマー兼エッセイストとして有名な清水亮氏の本に、
「プログラマーにスポーツの趣味を持つ人間は少ない。
 スポーツは同じことを何度も繰り返す。要するにトレーニングだ。
 むしろトレーニングを退屈だと思うから、プログラマーという生き方を選んだのかもしれない。」
 という文章があった。
 プログラミングのようなデジタルの世界は、アルゴリズムとか手順の工夫によって数百倍、数千倍の生産性の差が出てくる。それに対して、人間のフィジカルな能力というものはせいぜい数倍である。100メートル走をそれなりにトレーニングしている人なら13秒台ぐらいなら走れると思うが、ウサイン・ボルトでも9秒中盤ということは、30%程度しか変わらない。
 不思議なことに、その「僅かな」差が確実に人間にとっての感動を生む。その僅かな差を積み上げるのは、清水亮氏が指摘するようにほとんど繰り返しにみえる日々のトレーニングである。
 実はほとんど毎日同じようにみえるトレーニングは非常に低利率の複利である。いっときWeb上で流行した画像に1%の向上を日々積み重ねた結果と、1%の後退が積み重なった結果についての式がある。つまり

1.01^365 = 37.78...
0.99^365 = 0.025…
注:^はべき乗

1%の向上を複利で365回実現できれば、元の37倍にも達し、1%の後退が365回続けば2%ほどしか元のパフォーマンスは残らない。

 実際の身体はもっと緩やかな動きをするし、一部で向上し一部で後退するものだから、上のように単純ではない。30%で世界レベルと市民レベルが分かれることを考えると、1%の前進・後退はとてつもなく大きなオーダーであり、実際には0.1%の世界で進捗が計測される。さらに、いっとき全く停滞しているようにみえても実際には向上があり、ある時に急に進歩があるようにみえることもある。
 かようにして、身体運動において一流と平凡なパフォーマンスを分けているものは、無数のディテイルの集まりであり、イギリスナショナルチームやTeam Skyなどはその考え方を全面に押し出して marginal gain (僅かな進歩)という名前をつけた。
 コンセプトに名前がつくと、人間はすぐに頭に浮かぶようになるし、行動が意識的になる。現代のスポーツではそういうビジネスにおけるクリエイティビティのようなものも要求されている。
 日本でも、製造業においてトヨタの「カイゼン」が国際的に認知されるコンセプトになったように、スポーツからも有効な概念を発信できるようになれば面白いと思う。

2015年7月11日土曜日

全日本ロードの考察

閾値以上のパワーでどの程度の仕事量をこなしているかについての考察


図は全日本ロードにおける、パワーの時系列グラフです。

ロードレースでは、自分のペースで走ることは許されないため、テクニックによる変動はあるにせよ、似たような出力が要求されます。体重が同程度の選手が、同じような走り方をすれば上と同じようなグラフになるでしょう。

ここで、LT、CP、FTPなど色々な値がありますが閾値を一つ設けて閾値以上の仕事量(=出力 * 時間)の変動をみてみることにします。

閾値を280Wから360Wに変化させ、上の走り方をした場合に閾値以上での仕事量がどのように変化するのかを示したグラフです。

ほぼ線形に変化していることがわかります。ここまで線形に変化するのは意外でした。(もっと非線形性があるかと思っていた)レースにもよるでしょうが。

閾値が280Wの選手と360Wの選手では閾値以上の仕事量に倍の開きがあり、大雑把には10W閾値が変化すると、仕事量が6%程度変化することがわかりました。これはなかなか大きな差で、イメージとしては3分走してたら10秒追加されるようなものです。

2015年7月1日水曜日

全日本選手権タイムトライアル・ロードを終えて〜前半戦終了(2)

つづき

各チームのエース級が入った影響から後方の集団も完全に一度止まったようで、5分までは一気にタイム差が拡大。淡々と回します。この中で勝負があるとすれば。。。といった感じでお互いを探りあいながらも順調に歩を進める逃げ集団。コース的にも一旦リセットがあるのは必定ですが、後方が無理やり追いつく展開になれば、前待ちが圧倒的に有利な展開になると考えました。いずれにせよ、人数が多すぎるので逃げ集団内でも、どこかでまた絞られるはず。

しかし、愛三の二選手が集団に戻ってから様子が変わり、タイム差はじわじわと縮小傾向へ。特にやはり下りで詰められるようで、登りでペースを上げるも徐々に逃げ切りが厳しくなってきました。メンバーがメンバーだけに逃げ集団もペースアップしたり、アタックがかかったりと不安定に。しかし、残り距離もまだまだということで集団を完全に崩壊させるようなアタックには誰も出ることなく、一旦集団は一つに。

愛三その他も余裕があれば終盤に捕まえてその勢いでゴールをうかがうということもできたのでしょうが、(そのほうが、逃げ集団内に入った有力選手の終盤のアクションを封じ込めやすい)中盤の時点で詰め切らなくてはチームごと崩壊して終わるということもあったと思われ、早めの吸収になったかと思います。当然次の逃げ集団を決めるべく集団は活性化。逃げを捉える最後のプッシュで後方から来たメンバーにもやや疲労の色が見えたため、有力なスプリンターを抱えていないアンカーとしては、ここでの削り合いを厳しくしながらさらに攻撃的な逃げを作るのが重要です。狙い通り集団もばらけ始めました。

内間選手が鋭く飛び出し、力強く踏んでいったところで事件が。その前から何度か女子の集団を追い抜くことがあったのですが、男子の集団がちょうど女子のゴールにぶつかりそうだということでコミッセールが集団を強制停止。遅れていた選手まで全員復帰してちょうど3分ほど完全停止することに。

レース運営上しょうがないことは重々承知なのですが、これで完全にレースの質が変わったことは事実。240kmのレースがしんどいのは、240kmを連続で一気に走りきるからであって、ちょいちょい休みをいれればそれなりに誰でも走れることは、ロングの経験がある人なら実感できることだと思います。ここで集団は一旦完全に回復し、よーいドンで残り80kmをレースする準備ができたわけです。

似た状況を、大学時代の全日本学生個人ロードレースで体験しています。この場合、僕はプロトンに取り残される側だったのですが、残り距離をみて有力な逃げ集団をチームメイトと共に徐々に追い込んでいく状況にありました。ところが偶然にもコース内で火事があり、消防車が通るまでかなりの時間停止を強いられます。

その後、残り距離が少ない状況で十分に回復した逃げ集団は息を吹き返し、全力でローテーションを回したため、こちらも全力で追走したものの追いつくことはありませんでした。悔しい思い出です。そういうことも含めてロードレースではありますね。ヨーロッパのレースとかでも踏切などで似たようなことが起こります。

レース再開後、なかなか元気になった集団を崩せないのに苛立ちながらも登りで無理やり集団をコツコツ引き伸ばす工作あるのみ。常にアンカーから攻撃をしかけながらも決定打はなく、ラスト2周に入ってやや静かに。

そしてラスト1周に入ったところの平坦区間でミス。10人ちょいの先行に入ったのが井上選手のみ。やや他チームとお見合いして集団との差がするすると開いていくことに。井上選手はアシストのために集団に戻ってまで牽引、初山選手と僕を残して他のメンバーも逃げとの差を詰めようとします。

登り手前で30秒とかなり厳しい差だな。。。と思っていたところで畑中選手の強力なアタックがあったため、追走を開始。少し遅れて追走にきた鈴木譲選手と龍選手とともにとりあえず先頭集団には追いつきました。少し遅れて窪木選手も到着。

たどり着いてみると、Team UKYOの独壇場といっていい状況。初山選手がさらにその後にブリッジしてくるも、定石通り土井選手と畑中選手が代わる代わる波状攻撃を仕掛けます。追走に入ると窪木選手が完全に食らいついてくる状況で完全に詰みました。

自分はラスト1kmで脚を使い切り、集団内の初山選手にあとは託すのみ。残念ながら初山選手も勝利ならず。今年の全日本が終わりました。

終盤になっていくつかミスが出たのがよろしくなかったかと思います。持てるカードの中ではかなり正しく動けたように思うし、力は出し切ったのですが、最後にUKYOのベテラン勢の勝負勘にやられた感があります。ニュートラルのことは不満ですが、それを抜けばギリギリどのタイプの選手にもチャンスがある面白いコースでした。

また来年に向けてコツコツやっていくしかありません。今後も変わらぬ応援をよろしくお願いします。


2015年6月29日月曜日

全日本選手権タイムトライアル・ロードを終えて〜前半戦終了(1)

栃木県那須地方にて6月21日に全日本タイムトライアル、6月28日に全日本ロードレースに参戦しました。2013年以来、一年あけて久しぶりの大一番です。2013年は前半3月〜4月のヨーロッパ遠征に強く指向したコンディションづくりをしたため、全日本時には体調が悪く、万全を期して戦うのは実に2012年以来となります。

全日本選手権は優勝とそれ以外の差が本当に重い戦いです。僕がプロ1年目、シマノに入った時に先輩の選手から、全日本の時だけはどんな手を使ってでも最後は勝たなくてはならないと説かれました。普段なら力を見せて、内容を同時に求める走りを常に教えられていたのですが、全日本だけは勝たなくては意味がないと。それだけに最後のスプリントに残り、4位だった時も激しい悔しさしか残りませんでした。チームメイトの力を全部背負って戦った以上、勝利以外はありえなかったと。

全日本の準備はツール・ド・熊野終了後から6月21日のタイムトライアルと28日のロード両方に照準をあわせて本格的に開始しました。フランス遠征の終盤から試合数がかさみ、おちついて登り、基礎のパワーの確保をする練習ができていなかったため、まずはきっちり乗り込みました。練習していた鹿児島では来る日も来る日も雨。結局この期間、三日ほどしか晴れの日はなかったように記憶しています。それでも雨に徐々に慣れ、苦にしなくなってきました。明るいサングラス、キャップ、暖かいレインジャケット、止まらずに走るために多めの補給、そしてちょっとばかりの気合。

パワーメーター付きのタイムトライアルバイクも熊野終了時で手に入り、2週間ほどロードの合間にぽつぽつ乗りながらポジション、ペダリングを段階的にアップデート。特にハンドルバーのセッティングはありとあらゆる組み合わせを試しました。身体に正直になりながら、変化をパイオニアのペダリングモニタから読み解くという作業の繰り返し。しかし、タイムトライアルの開催される最終週に入ってもいまだ改善が続く状態で時間切れとなり、疲労を抜くメニューに切り替わり、この時間的な微妙な余裕の無さが試合に影響を与えたと今では考えています。

そのままレース時に非常に良いコンディションだったのを確信しきらずに3周回のうち、特に1周めで緩めの負荷で入ったことが致命傷になりました。体感的にも非常に楽ではあったのですが、自分を信じ切れず1週間半ほど前に想定した安全な負荷で巡航。さらに小さな丘に登るセクションでタイムを思い切って稼ぐべきところを、オーバーブローを恐れるあまり控えめに行ったこともよくなかった。
タイム的には16:53 @ 325W, 16:43 @ 334W, 16:25 @ 341Wと後半に無理やり上げることになってしまい、前半の遅れをあと僅かのところで詰め切れず。
結果優勝の中村選手から4秒、2位の増田選手から1秒弱という僅差で3位。

そこからどうにか気持ちを切り替えて1週間トレーニング後、ロードレースへ臨みました。体調も引き続き良く、今度こそは自分のコンディションに確信をもってスタート。

レース序盤3周ほどは主導権争いからアタックと吸収の繰り返しで激しく動きます。途中から特に登りでペースが上がるようになってくると徐々に脚の差が出て集団が割れ始め、土井選手や増田選手などの有力選手がいくのを確認して落ち着いてアタックを追走、逃げ集団に入ることに成功。この時には1min @ 500Wとか。ここにアンカーから3人が入り、他のメンバーも強力で、今日はもうこれで決めようという雰囲気がありました。

つづく
写真は@ロードレース by offcourseyas

2015年5月15日金曜日

2015年 Tour of Japan開幕

近況アップデートと告知です。

国内で最も格のある国際自転車競技連盟(UCI)管轄のレースである、Tour of Japanが5月17日(日)より開催されます。我々ブリヂストン・アンカーからは6名が出場し、私もその一翼を担うことになります。

競技復帰前の2013年度の大会では総合6位、ステージでも伊豆で6位という結果を残すことができました。タフな周回コースが多く、総合は中盤にある富士山のヒルクライムで決する展開が続いていますが、他のステージでも油断がならないレース構成となっています。また今年から新ステージのいなべステージが追加され、注目を集めています。

UCI 1クラスなので、ステージでは6位まで、総合でも10位までポイントが付き、UCIポイント獲得のための大きなチャンスでもあります。復帰してからヨーロッパ・ツアーではポイントを稼ぐことができなかったので、世界戦やリオ・オリンピックを見据えてこの辺でしっかりとポイントを稼ぎたいところです。

個人的に狙っているのは、飯田・修善寺のステージです。

ブルターニュ(1週間)から中一日でソンム〜2週間〜Tour of Japan〜3日〜熊野〜1週間〜Tour of Korea〜全日本 というなかなかの強行スケジュールのため、Tour of Japanだけでなく、全体を見据えて走りたいところ。

観戦情報はこちらです。応援よろしくお願いします
http://www.toj.co.jp/

2015年3月3日火曜日

Trofej Umag - Umag Trophy (1.2)に出場

イタリアはベルガモに来ています。ここは目的地ではなく、クロアチアへの経由地です。

明後日のTrofej Umag - Umag Trophy (UCI 1.2 ワンデー2クラス)を皮切りに、ワンデーを2つ、4日間のステージレースを1つ走ります。

Trofej Umag - Umag Trophy (1.2)
Porec Trophy - Trofej Porec (1.2)
Istarsko proljece - Istrian Spring Trophy (2.2)

どれも情報は少なく、不確定要素が多いですが、2週間のクロアチア滞在はなかなか楽しみです。復帰第一戦ということもあって、カンを戻しながら8位までに入るUCIポイント(40pt ~)をチームで狙っていくことが目標となります。

ベルガモの街並み