2015年10月15日木曜日

2015ツール・ド・シンカラ その2

翌日10月4日が第2ステージにして、実質の第1ステージだ。ピシュガマン、タブリズペトロケミカルというツアー・オブ・ジャパンでも他チームを山岳コースで蹂躙したイラン2チームが、遺憾なく力を発揮することのできる1級山岳を後半に含む。総合争いがいきなり激しく展開されることが予想された。

この日について重要なことは、レース展開についてまともに議論できる唯一の日だったということだ。それは、9日間ある僕のツール・ド・シンカラの中できら星の如く輝く唯一の日だった。その後の日々はありとあらゆるトラブルと共に語られる。

スタートから僕は攻めた。序盤道が細い区間、平坦区間でどうにかイラン勢からリードを奪えるような逃げを作り、登りで先行したい。いわゆる先待ち作戦だ。これが成功しないかぎりうちのチームではなかなか望みがない。

いくつもの小集団が形成され、そのたびにイラン勢がプロトンを回してレースをリセットする展開が続く。

道幅が広く、見通しのよい、集団が圧倒的に有利な区間に来て皆が逃げをためらい始めた。そして、力的に見劣りしそうなチームの逃げをイランが容認し始め、ぽつぽつと逃げ集団が形成されていく。これは登りで勝手に帰ってくるパターンの逃げで、安全だーーーイランにとっては。そして完全にドアが閉じられそうな瞬間に初山が無理やり飛び出してここまで容認された。列車の駆け込み乗車のようなもので、次に和郎さんがいこうとしたら一瞬でシャットアウトされた。

初山が入っただけでもかなり有利だ。そのまま平坦区間を消化して初山含む逃げと間隔を保ちながら勝負の1級山岳へ

が、僕自身は早々に脚が動かない。あきらかに普段より早く限界に到達する。インドネシア生活のストレスと空気と、なんやらかんやらにやられている。登り半ばですでに死にそうになりながらチームメイトや他チームの猛者たちをふりちぎっていく赤いピシュガマン列車を目撃して残りは完走を目指す。

自分はいいところなくその日を終えたが、初山がそのまま猛追してきたピシュガマン列車に下りで合流し、ステージ3位を獲得した。しかし、それ以外は全員ほぼ総合を失うという手痛い結果となった。後ほどそれどころではなくなるが。

レース後、次の宿へと移動する。警察の先導がないと絶望的な交通事情で移動は遅々として進まない。インドネシアに来ると、車検という制度がいかに交通を円滑に行うために重要かがわかる。渋滞の主な原因はポンコツ車のスピードが30km/hぐらいしかでないことで、坂ではそれがさらに悪化する。これを追い抜くためにこの国でまともな車に乗ったドライバー(例、大会の車)たちはみなありえないタイミングで追い抜きをかける。対向いるし、ブラインドコーナーだし。神仏に頼るというか、「南無阿弥陀仏!」と真剣に一度叫んで和郎さんに大笑いされた。ポンコツ車は排ガスも悲惨だ。両方日本並みの基準の車検で解決できる。車検なんてものは現代において官僚の天下りと余計な社会的なコストを生んでいるだけじゃないかと疑っていたそこの君(僕だ)、インドネシアで車検の有り難みを目撃するといい。

そしてホテルについたはよいが、別送のスーツケース類は数時間やってこなかったため、シャワーやら身の回りのことに大変な苦労をした。そこから我々はホテル到着後すぐに必要なものは、絶対手荷物から離さないことを学んだ。この国では人に預けた荷物はいつ帰ってくるかわかったものではない。やれやれ。ちなみにホテルに到着したとき、僕らはホテルとは信じられず、民家だと思った。一室は天井が抜け落ちていた。ここに二泊である。経験者初山いわく、去年泊まった山小屋のような宿ではなかったので喜ぶべきだとのこと。ものごとには全て明るい側面がある。

翌日は数少ない平坦のステージである。さてちょっとは、息抜きができる日になるのであろうか。