2015年10月28日水曜日

2015ツール・ド・シンカラ その4

これまで

9ステージからなる、ツール・ド・シンカラ。第1ステージが一部選手のコースミスでキャンセルになったり、第2ステージでイラン勢が大暴れしたり、第3ステージで下痢で道端に止まっていたらオートバイに轢かれたりして、命からがら3ステージを終えたのであった。
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10月6日の第4ステージは第2ステージに続く登坂総力戦のリターンマッチである。超級と2級の山岳を含み、特に一発目の超級は強烈だとのことだ。このままだとイラン勢が登りで飛んでいって、大勝してしまう可能性は高い。昨日のゴタゴタで自分は意気消沈していた。緩い腹は治りきらず、食欲は戻らない。生き残りをかけて戦う他ないと思われた。

この日はレース終了後の移動が200キロある。ヨーロッパならば2時間と少しで見積もる、どうということもない距離だろう。日本なら、まあ少ししんどいが3時間のドライブだろうか。だがインドネシアでは、延々と続くうねった山道を、4〜5時間移動することを意味する。高速道路などというものは存在しない。レース中は気にしてもしょうがないが、気が重くなる。

スタートからイラン2チームの直後に陣取り、我らがブリヂストンアンカーの士気は高いーーー僕を除いては。とりあえず腹痛はなかったものの、もう気楽に後方についていく他ない。生き残れたらめっけものだと思っている。途中内間の単独アタックなどもあったが、ピシュガマンは相当この日やる気らしく、逃げも長くはださない。ペンペン草も生えない。

前年に経験者がいるシマノレーシングチームの数名が、登り始めが近いと話しあっている。集団は殺気立って位置取りが激しくなってきたが、わりきって最低限のポジションを守るのみにする。

超級山岳の登りは、初めからキツく、いきなり集団がはじける。1時間ある登りだが、開始5分でオールアウトしている選手が降ってくる。自分は集団中盤から淡々とタイムトライアルモードで登っていく。昨日の今日だが意外と調子は悪くないかもしれない。

次々に選手を抜いていくと、チームメイトの初山とダミアンにまで追いつく。後はアシストとして、山頂まで引き倒す。初山の総合の遅れを最小限にするのが目標だ。山岳エースのトマはさすが、イランの列車に乗れたようだ。山頂で4分差、登り一発で絶望的なギャップだ。イラン列車に乗れた非イラン人はトマとキナンチームのジェイ選手のみ。

アンカーから4人を含む、安定した第2集団をつくって綺麗に回していくが、1秒たりとてギャップの縮まる気配がない。むしろ開いている。こちらは完全に協調している。人数はほぼ互角だが、向こうにはトマとキナンチームのジャイ選手が重しをしているはずだ。しかし距離を消化するにしたがって、1分、また1分と開き、合流は絶望的になった。最後の登りで先頭集団は戦争をやっていたらしいが、こちらはあくまで協調してゴール。トマがステージ2位で、初山に続いてまたも表彰台を取ったのが救いだった。やれることはやったが、この時点で総合のカードが消えた。

レース後の移動に使う、16時発のバスに乗り込む。このバスは少し古びているものの、ちゃんとしている。一点目を引いたのは、大型のスピーカーが荷棚として空いているべき上方の空間を、ずらっと埋めていたところである。

バスが出発するとすぐに、大音量でダンスミュージックをスピーカーが鳴らしはじめる。レース後の身体にキンキンくるな、と思いながら200キロ先のホテルがまともであることを願う。そのうちバス運転手が本性をあらわす。

インドネシアに来てから、運転手たちが容赦なく前方の車に追い抜きをかけ、最小限の減速でコーナーをクリアし、僕らを車酔いにおとしいれることは既に書いた。朴訥にみえたバス運転手も例外ではなかった。しかし、いったいバスの機動性でなにができるのでしょうと、日本の(もしくは世界の大多数の)バスしか知らない方は述べられるかもしれない。彼の地のバスは、通常のバスの概念をはるかに超えている。コーナーリングで感じる横加速度、登りのパワー、追い抜きの機敏さ、どれをとってもバスとは思えない。東京都営バスでこんな運転を披露すれば、おばあちゃんが数人泡を吹いて倒れるだろう。

シンカラ湖(レース名はこの湖からきている)に向かう山道のワインディングの凶暴なリズムと、立派なスピーカーから流れる大音量のダンスミュージックは不思議とよくマッチしていた。眠りたいが、揺れがひどすぎて、吐き気とともに目が覚めるのがおそろしかった。いつしか日も暮れて、バスの揺れと夕闇とダンスミュージックと外のライトが過ぎ去る様子が、どこまでも現実ばなれして脳裏に残った。

長い移動もいつかは終わる。21時頃にこの遠征の中で2番めにまともなホテル、ロッキーホテルにたどりつき、遅い夕食をすませて床についた。

2015年10月17日土曜日

2015ツール・ド・シンカラ その3

10月5日は比較的平坦な第3ステージが用意された。前日にいきなり総合で決定的な動きが決まったために、リーダーチームもはっきりとして安定したレースとなるはずだ。ふりかえると、まあとりあえずレースは安定していた。安定していなかったのは僕である。

スタートラインまでは7人乗りのトヨタに例のごとくぎゅうぎゅう詰めで移動する。この国に来てから日本車の優秀さをあらためて実感する。スタート近辺はくねった一車線で、周囲はいまにもオランウータンが現れそうなほどうっそうとしている。道も荒く、しばしばオフロードになる。しかし運転手のブンガ氏(推定40)はまったく怯むことなく、エンジンの回転数3000以上を保って、軽快にコーナーリングを決めていく。スタートラインにつく頃には、まず車酔いやら移動の疲労を回復しないとしばらく動けない。

丘の上の原っぱがチームのパーキングである。サインのための公園のようなところでは、インドネシアの民族舞踊のようなものが披露されている。失礼ながらこの手の出しものは、正直退屈なものが多いと思うが、今回のものは良かった。音楽はリズミカルながら複雑で変化に富む。皿を持って行う舞踊も目新しい。

チームパーキングはあまり快適とはいいがたいので早めに並ぶ。スタート2分前ぐらいに軽く腹に差し込みがある。実はその日までに腹がゆるくなっていた。食事と水があわないためだと思うが、僕に限らず皆下痢気味だ。スタート前にトイレに駆け込む選手も多い。しかし、流石にスタートが迫りすぎていたために、サドルに座ってしまえばなんとかなるであろうと高をくくってスタートした。

スタート後も一向に状況は良くならない。むしろ悪化している。リアルスタートが切られてからは腹圧を高めて体幹を安定させる必要もあってよりつらい。逃げ切りの可能性のある逃げ集団を作るべく、昨日のように前方で展開しなくてはならないのだが、それどころではない。

スタート後30分もする頃には、肛門括約筋に意識が集中するあまり、脂汗をかいていた。ダンシングは限りなく危険な行為になった。シッティングを限界まで利用しながら、「シッティングの新たな地平を切り開く」などと考えて気を紛らわせながらペダリングをする。学生時代にトラックレーサーで、シッティングのまま加速する方法を練習したなどと考える。

しかし限界がある。これは先輩諸氏の武勇談に聞く、レース中に民家でトイレを借りるパターンだと覚悟を決める。せめてアタック合戦が終わって欲しいが、こういう日に限ってなかなか決まらない。レース時間1時間を超えて、道が広くなり、ややペースが緩んだところで、ここしかあるまいと思って民家を探し始める。

比較的見通しのよい直線路の右手に小さな商店があり、数人が店先で応援している。きっと奥にトイレもあるだろう。左車線の国で右側に止まるのは行儀が悪いが、トラブルで機材交換などをするわけではなく、すぐに走り出すはずなので大丈夫だろうと考え(大甘だった)、住人の前に停止する。

驚いた様子の住人にとりあえず「トイレ!」と叫ぶ。一応伝わっているようで、おお、という感じで彼が後方、店の奥を示してくれる。

その時、右手からーーーつまりレース後方から、マーシャル(レース中の安全確保を行う人)のオートバイが近づいて来るのが右目の端っこにみえた。僕が停止しているのを発見して、トラブルかどうか確認しにきたのだろうと直感的に思った。これで無線によってチームカーへ僕が停止していることが伝われば、復帰が少し楽になるとも思った。

が、オートバイのスピードは緩まず、ギリギリでフルブレーキを始め、横転してスライディングを始めた。そのまま僕をまあまあの衝撃で自転車ごと突き飛ばして転がった。現地住民たちは大騒ぎである。オートバイのライダー二人は転がってうめいている。僕はとりあえず自転車を放棄して立ち上がり、突き飛ばされた衝撃で膝から血をだらだら流しながら、住民になおもトイレを迫った。もう極限である。轢かれた擦過傷よりも腹が限界。

住人は僕の傷に目を奪われながらも、とりあえずトイレにつれていってくれた。後方でチームカーが到着して、メカの中山氏がなにか叫んでいたがとりあえず腹がそれどころではない。こちらは最中に紙がないことに気がついて、愕然としていたが、もはや勢いで現地の手法にのっとる。現地の人たちはそれで用が足りているのだからあたりまえだが、意外とクリーンにできた。

道路に戻るとディレイラーとエンドがへし曲がった自分の自転車が回収され、代車が用意されていた。すばやく飛び乗って、カーペーサーにしばし集中する。

どうにかレースに復帰したが、もはやなにもできる身体状況ではないので、おとなしく集団後方にぶらさがっている。幸いレースも落ちついていた。

レース終盤に再び差し込みがあるも、なんとか耐え切る。レース後に3回ぐらいトイレにこもり、現代的なトイレ設備に感謝した。昼食はほとんど喉を通らなかった。これで3/9である。まったく先が思いやられる。翌日の超級山岳を含むステージを考えて暗い気持ちになった。

2015年10月15日木曜日

2015ツール・ド・シンカラ その2

翌日10月4日が第2ステージにして、実質の第1ステージだ。ピシュガマン、タブリズペトロケミカルというツアー・オブ・ジャパンでも他チームを山岳コースで蹂躙したイラン2チームが、遺憾なく力を発揮することのできる1級山岳を後半に含む。総合争いがいきなり激しく展開されることが予想された。

この日について重要なことは、レース展開についてまともに議論できる唯一の日だったということだ。それは、9日間ある僕のツール・ド・シンカラの中できら星の如く輝く唯一の日だった。その後の日々はありとあらゆるトラブルと共に語られる。

スタートから僕は攻めた。序盤道が細い区間、平坦区間でどうにかイラン勢からリードを奪えるような逃げを作り、登りで先行したい。いわゆる先待ち作戦だ。これが成功しないかぎりうちのチームではなかなか望みがない。

いくつもの小集団が形成され、そのたびにイラン勢がプロトンを回してレースをリセットする展開が続く。

道幅が広く、見通しのよい、集団が圧倒的に有利な区間に来て皆が逃げをためらい始めた。そして、力的に見劣りしそうなチームの逃げをイランが容認し始め、ぽつぽつと逃げ集団が形成されていく。これは登りで勝手に帰ってくるパターンの逃げで、安全だーーーイランにとっては。そして完全にドアが閉じられそうな瞬間に初山が無理やり飛び出してここまで容認された。列車の駆け込み乗車のようなもので、次に和郎さんがいこうとしたら一瞬でシャットアウトされた。

初山が入っただけでもかなり有利だ。そのまま平坦区間を消化して初山含む逃げと間隔を保ちながら勝負の1級山岳へ

が、僕自身は早々に脚が動かない。あきらかに普段より早く限界に到達する。インドネシア生活のストレスと空気と、なんやらかんやらにやられている。登り半ばですでに死にそうになりながらチームメイトや他チームの猛者たちをふりちぎっていく赤いピシュガマン列車を目撃して残りは完走を目指す。

自分はいいところなくその日を終えたが、初山がそのまま猛追してきたピシュガマン列車に下りで合流し、ステージ3位を獲得した。しかし、それ以外は全員ほぼ総合を失うという手痛い結果となった。後ほどそれどころではなくなるが。

レース後、次の宿へと移動する。警察の先導がないと絶望的な交通事情で移動は遅々として進まない。インドネシアに来ると、車検という制度がいかに交通を円滑に行うために重要かがわかる。渋滞の主な原因はポンコツ車のスピードが30km/hぐらいしかでないことで、坂ではそれがさらに悪化する。これを追い抜くためにこの国でまともな車に乗ったドライバー(例、大会の車)たちはみなありえないタイミングで追い抜きをかける。対向いるし、ブラインドコーナーだし。神仏に頼るというか、「南無阿弥陀仏!」と真剣に一度叫んで和郎さんに大笑いされた。ポンコツ車は排ガスも悲惨だ。両方日本並みの基準の車検で解決できる。車検なんてものは現代において官僚の天下りと余計な社会的なコストを生んでいるだけじゃないかと疑っていたそこの君(僕だ)、インドネシアで車検の有り難みを目撃するといい。

そしてホテルについたはよいが、別送のスーツケース類は数時間やってこなかったため、シャワーやら身の回りのことに大変な苦労をした。そこから我々はホテル到着後すぐに必要なものは、絶対手荷物から離さないことを学んだ。この国では人に預けた荷物はいつ帰ってくるかわかったものではない。やれやれ。ちなみにホテルに到着したとき、僕らはホテルとは信じられず、民家だと思った。一室は天井が抜け落ちていた。ここに二泊である。経験者初山いわく、去年泊まった山小屋のような宿ではなかったので喜ぶべきだとのこと。ものごとには全て明るい側面がある。

翌日は数少ない平坦のステージである。さてちょっとは、息抜きができる日になるのであろうか。

2015年10月14日水曜日

2015ツール・ド・シンカラ その1

先週はインドネシアでツール・ド・シンカラという9日間のステージレースを走ってきました。

自身で初めての東南アジアでのアジアツアーレース。先輩諸氏によれば、アジアツアーはレースで最強なだけでは勝つことができず、人類完成体としての強さが求められるという。数あるアジアツアーの中でも、インドネシアはかなり高レベルだとのことだ。主に衛生概念と暑さ的に。

ロードサイクリングは、それなりの速度でグローバル化を遂げている。僕のキャリアの間だけでも、確実にいくつかの非伝統国が伝統国に伍するようになりつつある。それと歩調をあわせて、これまでレースのなかった地方でレースが開催されるようになってきている。中でも発展途上国のいくつかでは、その経済成長の希望から、ロードサイクリングのような非採算的イベントに多額の資金を投じることもいとわない。ロードサイクリングがはっきりとした因果関係に支えられた、採算事業でないことは、システム的病なのだが、それはまた別の話。

インドネシアもその若々しい人口構成、人口そのもののボリューム、大きな経済発展の余地から、ある程度将来が約束された国の一つであることは承知のとおり。ホテルから一歩出て、パダンの混沌とした空港に通じるメインストリートを走行すると、その事実をひしひしと肌で感じることになる。小さな商店が通り沿いに立ち並び、食品、携帯電話、服飾、原付きなどを各々熱心に売っており、洗練されたとは言いがたいそれらの商店が活気をある様子は、まだ逃げが決まっていない、これからなんでも起こりうる、序盤のロードレースを思い起こさせる。

初日は夜遅くに、日本からパダンにたどり着いた。移動は丸々一日仕事だった。朝5時半に起床し、空港に向かい、昼前に飛行機に乗ってまず7時間でジャカルタにつく。2時間ほどの余裕をもったトランジットを挟んで、国内便でパダンの空港へ向かう。インドネシアは地図上で見る限り、よっぽどヨーロッパや中東よりも近そうに見えるが、案外着かない。心理的にフライトがヨーロッパ行きなどより長く感じられる。ガルーダ・インドネシア航空の機内メディアが揃える、日本語話者/英語読者(英語口語のリスニングは苦手だ)が気軽に楽しめる映画コンテンツがやや乏しかったのも影響している。今回は夏目漱石を愛用のKindleに何本か入れてきたので、「それから」をしばらく読みふけるが、文語体と筋の繊細さにそれなりに集中力を要求され、長時間は読んでいられない。機内の冷房は最強で、長袖と毛布にくるまって震えているレベルだった。

パダンの空港にたどり着くのは22時頃を回っていて、ロードレース遠征において例のごとく、大量の荷物を手荷物受取で集めるのに苦労する。スタッフも選手も使って総力戦である。出口にはさっそくファイサル氏という通訳が待っている。人がよさそうだ。大量の荷物は、我々の乗るバンとは別のトラックに積み込まれるが、大会側がいささか計画性に欠けるのと、手際が悪いので、長距離の疲労が少し増すように感じられる。しかし僕の方も、選手としてのキャリアの中で慣れてきたもので、これならオマーン/モロッコ/他任意のどこか、の方がよっぽど大変だったなと妙に落ちついている。日付が変わる直前にホテルの部屋に入れた。

朝8時まで死んだように眠る。ホテルはかなり豪勢なところだ。しかし備品というか、ハードウェアに対して、維持するための掃除とかにかなり問題があるらしく、高級そうな部屋のバスルームの天井はカビて台無しだ。それでも寝心地の良いベッドと、すぐに出る熱いお湯と、荷物を広げるのに十分なスペースに感謝の念が絶えない。結局のところ、僕らはバスルームの天井を眺めて過ごすわけではない。結局後ほどこのホテルがいかに素晴らしいところであったか思い知る。

なぜか昼間からまともに日が差さない強力な煙の中で練習をせざるをえない。聞くところでは、熱帯雨林の焼き畑が延焼したことによる森林火災で、周辺が全て煙に覆われているということだ。排ガスとわけのわからないものが腐った匂いと全てが入り混じり、さながら瘴気のようになって、激しく呼吸するスポーツには適切とは言いがたいが、慣れようと努める。

とりあえずレースまではまあまあ通常運行で準備をこなし、十分に睡眠もとってレース1日目を迎える。しかしここから全力でアジアツアーの本領が発揮される。

パレードがスタートしてしばらく、やたら細い道でプロトン全体が一時停止させられる。なにかセレモニーのようなことかと思ったが、どうやら様子がおかしい。

再スタートしてからもリアルスタートはなく、停止と再スタートを繰り返す。そのころにはプロトン内でも情報が入り、まずチームカーがどこかに消えてしまったということがはっきりとした。最初のパレードは市街地を数周するものだったのだが、周回を抜け出て待っているはずのチームカーやニュートラルの隊列が大部分消えてしまっているとのこと。

さらに、選手まで一部消えてしまっているとのこと。わけがわからなかったが、どうやらパレード中にメカトラにあってしまった選手が急ぎ機材調整を受け、集団に復帰しようと焦った際に先にコースに出てしまったようだとのこと、、、僕らがまだ周回している間に。その結果はどうなったかというと、この選手とこの選手のチームカー並びにその後ろだったチームカーがはるか前方を走っているらしい。さらに、この選手が初日でリタイヤという愚が頭にちらつくばかりに、コミッセールの停止命令をなんども振り切って(本人は遅れてリタイヤを宣告されていると思っている)いるので問題が拡大してしまったようだ。やれやれ

結局レース1/3ほどのところでコミッセールが事態の収集を図っている間に長時間の本格的な停止を強いられることになった。すると群がってくる人、人、人。。。好奇心の塊のような人々に圧倒される。「ミスター!フォトー!」と叫んでくる学生たちにどの選手も取り囲まれ、次々に記念撮影とあいなる。

そしてしっかり暑い。停まっていても水を被り、むせるような湿度に体力が奪われる。

結局レースはニュートラルとなり、ゴールまでは走るもののUCIレースとしてはキャンセルという扱いになった。ただし、賞金の配分は決めたいということで、残りたい選手だけ残って、ラスト10キロでよーいどんをやって、着順をつけるという。そんな危ないレースはやってられないので僕らは最後まで走らずにホテルに帰る。後ほど聞くところによると、10キロのロードレースはやはり危険で、落車が発生して怪我を負い、翌日出走できない選手がでたとのこと。

レースが1日も始まらない前からいきなりリタイヤがでた。これで1/9。もう5ステージぐらい走ったみたいな疲労感だ。やれやれ。